昨27日(火)は、N社(京橋)入社時の上司、というより会社に入れてくれた恩人であるF氏宅を訪問した。
私の時代の就職活動は、4年生の10月1日が会社訪問解禁、11月1日が採用試験解禁というスケジュールだった。
1977年10月、親の助言も受けながらいくつもの会社を訪問したが、良い結果が出ないまま日が過ぎて行った。
大学の就職事務室に相談に行ったところ、求人が来ている企業をいくつか教えてくれたのだが、その中にN社の名前があった。
当時N社で常務取締役経理部長を務めていたF氏が、大学の関係者を介して、学生がいたら紹介してほしいと要請していたのだそうだ。
さっそくN社を訪問した。F氏と人事部長に面接を受け、ほどなく内定をもらった。
つまり、F氏と大学の縁がなかったら、N社への入社はなかった。F氏は私を会社に入れてくれた恩人というわけである。
翌1978年4月に入社した私は、1ヶ月あまりの新入社員研修を終えて、5月半ばにF氏が部長を務める本社経理部に配属された。
経理部には3年間在籍した。3年目には、F氏の秘書もどきの下働きも命じられた。
近くでF氏を見ていて、自分もああいうタイプ(キャラクター)の上司になれたら、と思ったことを記憶している。入社したばかりの若手がそんなことを思うなど、今考えても誠に畏れ多いことだったが。
4年目に品川にある支店に出て以後、直接の上下関係になったことはないが、F氏は自分にとって常に大切な存在だった。
千葉で現場勤務をしていた一時期、当時の仕事について思うところがあり、東京に出かけて相談したことがあった。また後年、労働組合の専従役員にならないかとの誘いを受けた時も、どうしたものかと悩みつつ、相談したものだった。
それから、1984年、N社が創立50周年を迎えた年に、F氏がそれを祝う歌詞を書かれたのだが、「君、この詞に作曲できるか」と思いもかけぬ命を受けて、苦心惨憺の末に曲を書き、社内報に歌詞と楽譜が紹介されたこともあった。もうおぼえている人などいないはずだが、個人的には大きな思い出である。
もちろん、結婚に際しては媒酌人をお願いした。
F氏は、その後N社の常勤監査役になったが、今から30年前に急逝された。まだ70歳にならない若さだった。遠からず私もその歳に追いつく。
F氏宅には、その後も、人事異動があった時など折にふれ訪問して、仏前に報告するとともに、夫人とお話をさせていただいてきた。
今回も、45年余りの会社生活を終えたという大きな区切りだったので、しばらくぶりにおうかがいしたものだ。
いつものように夫人がにこやかに迎えて下さった。もう95歳になられるそうだが、まさにかくしゃく、少しも変わらぬお元気な姿が嬉しかった。
仏前に、「会社に入れていただいて45年、無事に勤め上げました」と報告した。
F氏なくして今の自分はない。
新入社員としてご一緒させていただいたのが会社生活の出発点だったわけで、子会社での勤務も含め、それが終わったと報告できたのは、本当に感無量と言う他はなかった。
紅茶をいただきながら、しばらく昔話などに花を咲かせた。
「それにしても、亡くなられるのが早すぎましたね」と申し上げた。お元気でいてくれて、この報告を直接できたらどんなによかったか。目の奥が熱くなった。
「いくつになられるの」と聞かれ、来月には68になります、と答えたが、「いつも色々な人に言っているけど、人生は70からだから」と言われた。銘記して生きねば、と身の引き締まる思いだった。
私の場合だと、95歳までは四半世紀以上もある。元気でがんばらねば。
1時間ほどお邪魔して、またうかがいます、と辞去した。
今回の退職に際しては、関係各所に挨拶にまわったが、私にとって最も大きな意味のある挨拶先の1つを終えられたことに安堵感をおぼえた。
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