naokichiオムニバス

66歳会社員。ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

会社先輩の弔問

少し前の話になるが、会社社屋が引っ越してばたばたしているさなかの21日(火)、イントラネット掲示板に、会社の先輩の訃報が載った。

T氏というその先輩と出会ったのは、私が入社4年目の1981年。3年間勤務した本社経理部を離れ、初めての転勤で赴任した、品川の支店でだった。

T氏は、機械職種の人で、同じフロアにはいたものの、経理職の私との業務上の関わりはあまりなかった。

しかし、翌1982年から、労働組合支部執行部に加わった際、同時に執行部入りしたT氏と一緒に活動するようになったことで、親交を深めた。

執行部入り3年目の1984年に、T氏が支部執行委員長、私が書記長に就任して、支部三役の中核になった。当時、委員長のT氏は引き続き支店勤務だったが、私は千葉の現場事務所に異動していた。

そのため、T氏とは毎日のように電話で組合活動に関する打合せをしたものだった。

支部活動当時の思い出として大きいのは、1985年、結婚が決まり、個人的なわがままで、当初予定では留任するはずだった書記長職を降りたい、と申し出て、T委員長や副委員長のH氏ともめたことだ。この件について、品川の支店で三役で話し合ったが物別れとなり、どうしたものかと思いながら帰ってきて知ったのが、日航機の墜落事故だった。そのこともあって、忘れ難い(書記長には結局留任した)。

   8月12日
      https://blogs.yahoo.co.jp/naokichivla/60130822.html

T氏の会社での仕事について特筆すべきは、数年後、千葉の支店で総務課長になったことだ。もともと機械職種だった人が総務課長になるというのは、きわめて異色の人事であるが、支部委員長としての活動ぶりを通じて、人物が評価された面もあったかと当時は推察したものだ。

その後、T氏は福岡の支店の総務課長になる。その時期に、本社の営業部門に異動していた私は、福岡の支店を出張で訪れたことがあった。用務を済ませて帰ろうとした時、「福岡の旨い魚を食べて行けよ」と飲みに誘ってくれたのだが、帰りの飛行機を予約してあったため、固辞して帰った。その際も、支店玄関の表の通りまで見送りに出てくれた。このことも思い出として今でも残っている。

また、その後、関連会社に出向したT氏を、人事部勤務となった私が、年1回ほど人事部長と一緒に訪問して顔を合わせたこともあった。

このように大変親交があり、お世話にもなったT氏とは、近年は会うこともなくなっていたが、そんな中での訃報通知は、やはり衝撃だった。

74歳と書かれていた。もうそんなお歳だったかと思う反面、亡くなるにはまだ早いとも感じた。

逝去がお盆休みの直前で、既に葬儀は終わっていたので、越谷のご自宅まで弔問に行くことにした。

組合の歴代役員名簿を引っ張り出し、1980年代半ばの、支部執行部のメンバーを確認した。既に会社を退職したり、あるいは亡くなったりしている人も少なくない中、イントラネットを見る立場にない何人かの人たちに連絡をとった。

T委員長時代、私の後任の書記長を務めたM氏(現在は関係会社勤務)と2人で行くことになった。

23日(木)、早めに会社を出て、八丁堀から日比谷線に乗車、東武線直通の電車で、せんげん台へ。

せんげん台駅でM氏と落ち合い、地図を頼りに初めてのT氏宅を訪問した。

奥様とお会いし、仏前に線香を上げさせていただいて、15分ほどお話をした。

65歳で会社を離れられてからは、地域の自治会長などの活動をされていたとのこと。葬儀には、想像していなかった多数の参列があり、驚いたとおっしゃっていた。

地域でそうした人望を得て、充実したセカンドライフを送られたことは、ご本人の人間性、人徳あってのことと思った。また、それは、会社の仕事や組合の活動を通じて磨かれた面もあっただろう。

ほどなく現役を終える自分も、仕事以外の核を見つけて、意義ある生活を送りたいものだと、しみじみ思った。

亡くなられるまでの健康状態についてもうかがった。後悔先に立たずではあるが、会社を退かれた後も、たまには会って飲む機会を持てばよかったと痛感した。

奥様も民生委員をされているそうで、近くにお住まいのご子息にも支えられ、まだまだこれからも地域のために活躍していかれるご様子だった。

辞去した後は、せんげん台駅前で、M氏と2人、久しぶりに飲みながら、T氏の思い出を語り合った。

長生きせねば。

それも、元気で長生きせねば。