naokichiオムニバス

69歳、公務員、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

当たり前のことだが~給料日と「自分のベース」

6月に、A社(西新宿)とB社(三軒茶屋)の監査役を前後して退任して、リタイア生活に移行した。

 

その6月は23日(金)に最後の監査役報酬が支払われたが、7月25日(火)は、当然それがなかった。前職N(京橋)も含め、45年余り、毎月25日(休日であればさかのぼる)は給料日だったわけで、このことにはやはり感ずるところがあった。

端的に言ってしまえば、「仕事をしてお金をもらう」身でなくなったのだ、と。

(さらに別の下世話な言い方をすれば、「家に金を運んでくる」身でなくなった、とも)

 

まあ、これは、会社勤めから離れれば誰しも経験する、当たり前のことだ。何人もの先輩方が、よく「年金生活者」と自らを称していたものだった。自分もその領域に入っただけのことだ。

 

それはさておき、もう1つ、リタイア後、1ヶ月、2ヶ月と経過するにつれて自覚を深めていることがある。

それは、自分と言う人間のベースは、ともかくも「会社員」にあるということだ。

もう少し深いところでさらに言えば、自分が勤めてきた3つの会社、特に大部分を過ごしたN社での、個人的な職歴、その時々の上司や同僚、部下たちの人的影響などが、自分の根幹にあることを痛感する。

 

仕事を離れたからと言って、まったく別の人間になるわけではない。

もはや仕事をするわけでない今の生活の中でも、例えば妻と会話する時、オケ関係で何かのコミュニケーションをとる時、多くの場面で、自分の中にある思考方法や表現方法を始めとする会社員としての経験が、すべてのベースになっていて、そこからは離れていないことに気づく。

 

「ベース」と「アイデンティティ」。

N社、A社、B社の人間でなくなったことで、会社員としてのアイデンティティを失うことは、在職中から認識していたし、実際そうなった今、別にそれを惜しむ気持ちや喪失感はない。

しかし、アイデンティティと別に、自分という人間、人格、人間性の相当程度のベース部分に、会社員として身につけてきたものが入り込んでいることは、しばしば自覚する。これはあまり想定していなかったことだ。

 

思ってみれば、これも誰しも経験する当たり前のことなのだろう。

 

「そこから離れていない」とさっき書いたが、離れるべきなのかどうか、そこはまだつかみかねている。

アイデンティティとともに、ベースの部分も自分からは遠ざけて、一個人としてのあり方を作り直していくべきものなのか、あるいは、45年あまりの会社生活で確立したものは一個人としても堅持していくべきなのか。

さて、どちらだろう。

 

これを考えていくのは、当面の大きなテーマのような気がする。