新シリーズ「昔はなかったもの」。
今の社会、今の生活で、それがないことなど考えられないが、思ってみれば、自分が生まれた時にそれはなかったもの。
昭和30年生まれの私の世代で言うと、何といってもテレビだろう。
私の世代の多くの者にとっては、テレビというのは、「途中から登場したもの」であるはずだ。
もっと正確に言うと、テレビが「途中から登場した」最後の世代が、私の世代だろう。
もっと正確に言うと、テレビが「途中から登場した」最後の世代が、私の世代だろう。
木更津の田舎、私の家にテレビが入ってきたのがいつだったか、正確には覚えていない。物心ついたかつかないかくらいの頃だ。
ともかく、「テレビが来た」というのは覚えている。そう、テレビは「来た」のだ。
たぶん、当時の皇太子ご成婚に合わせてくらいのタイミングで両親が買ったのだと思う。
確か新品でなく、中古だったような気がする。
→これを読んだ実家の母から連絡があり、「新品だった」とのことでした。当時はテレビの
中古なんかはなかったそうです。
近所の中では、テレビが入ったのは早い方だった。
ともかく、「テレビが来た」というのは覚えている。そう、テレビは「来た」のだ。
たぶん、当時の皇太子ご成婚に合わせてくらいのタイミングで両親が買ったのだと思う。
確か新品でなく、中古だったような気がする。
→これを読んだ実家の母から連絡があり、「新品だった」とのことでした。当時はテレビの
中古なんかはなかったそうです。
近所の中では、テレビが入ったのは早い方だった。
同じ頃に、近所にある父の実家、母の実家にも、テレビは入っていたと思う。
父の実家のテレビで、相撲を見たのをよく覚えている。
父の実家のテレビで、相撲を見たのをよく覚えている。
テレビについての次の事件は、「カラーテレビ」だ。
白黒テレビから、カラーテレビへの買い換え。
一般家庭にとっては、まさに高度経済成長の象徴のようなイベントだったと思う。
白黒テレビから、カラーテレビへの買い換え。
一般家庭にとっては、まさに高度経済成長の象徴のようなイベントだったと思う。
私の家では、確か中学2年の時だった。69年(昭和44年)。
ある日曜日、父が突然、「カラーテレビを買いに行くぞ」と言った。
何の前ぶれもなかったので、驚き、喜んで、一家四人で、近くの電気屋に行った。
確か、東芝のカラーテレビだったと思う。
次の月曜日に家に届けられることになった。
ある日曜日、父が突然、「カラーテレビを買いに行くぞ」と言った。
何の前ぶれもなかったので、驚き、喜んで、一家四人で、近くの電気屋に行った。
確か、東芝のカラーテレビだったと思う。
次の月曜日に家に届けられることになった。
その月曜日、朝からもうカラーテレビのことばかり考えていて、授業は上の空。早く放課後にならないかとそればかり願った。
「何かを本当に楽しみにした」という経験はいくつかあるが、カラーテレビが届いているはずの家に早く帰りたいと1日中思っていたあの日は、これまでの人生の中でも一、二を争う。
月曜ということで、その夜に見た「夜のヒットスタジオ」の「色のついた映像」もまた、鮮やかな印象が今でも強く残っている。
「何かを本当に楽しみにした」という経験はいくつかあるが、カラーテレビが届いているはずの家に早く帰りたいと1日中思っていたあの日は、これまでの人生の中でも一、二を争う。
月曜ということで、その夜に見た「夜のヒットスタジオ」の「色のついた映像」もまた、鮮やかな印象が今でも強く残っている。
「チャンネル争い」という言葉は、今では死語だろう。
一つの家にはテレビが一台しかない時代。まして、番組を録画して好きな時に見るなどということが想像もつかない当時は、つまり、一つの番組しか、そしてもちろんオンタイムでしか見られなかったのだ。
今から思うと何と不自由な時代だったことか。
一つの家にはテレビが一台しかない時代。まして、番組を録画して好きな時に見るなどということが想像もつかない当時は、つまり、一つの番組しか、そしてもちろんオンタイムでしか見られなかったのだ。
今から思うと何と不自由な時代だったことか。
さて、テレビといえば、私の場合は、大学に入って親元を離れて生活を始めてからのテレビのことも忘れられない。
74年(昭和49年)、小平の四畳半で生活を始めるにあたり、両親が、小さな白黒テレビを買ってくれた。
カラーテレビではなかったのだ。しかも、その白黒テレビを、私は19歳になるその年から、28歳まで使った。
カラーテレビではなかったのだ。しかも、その白黒テレビを、私は19歳になるその年から、28歳まで使った。
小平の下宿で2年。国立のアパートで2年。会社に入って、北浦和の独身寮で5年。
そして、千葉の現場事務所の宿舎に持ち込んだ、その白黒テレビは、そろそろ寿命で、調子が悪くなってきていた。
この際買い換えようということで、今度は自分の給料で、カラーテレビを買うことにした。
83年(昭和58年)、クリスマスの頃だったと記憶する。
当時の私にとっては、かなり思い切った買物だった。よくおぼえていないが、10万円くらいしただろうか。
決断したのは、もちろん使っていたテレビの不調もあるが、オフコースの作ったテレビ番組「NEXT」が翌日に放映される(前の年に放送されたものの再放送)からだった。
「NEXT」をカラーで見たい、というのが、その日、買いに行かせた理由だ。
そして、千葉の現場事務所の宿舎に持ち込んだ、その白黒テレビは、そろそろ寿命で、調子が悪くなってきていた。
この際買い換えようということで、今度は自分の給料で、カラーテレビを買うことにした。
83年(昭和58年)、クリスマスの頃だったと記憶する。
当時の私にとっては、かなり思い切った買物だった。よくおぼえていないが、10万円くらいしただろうか。
決断したのは、もちろん使っていたテレビの不調もあるが、オフコースの作ったテレビ番組「NEXT」が翌日に放映される(前の年に放送されたものの再放送)からだった。
「NEXT」をカラーで見たい、というのが、その日、買いに行かせた理由だ。
独身時代の2台のテレビは、もう手放してしまった。
今はテレビが格別のぜいたく品という時代ではない。
使っていた1台1台へのテレビへの思い入れ、というのは、やはり私の世代にしかないものなのだろう。
今はテレビが格別のぜいたく品という時代ではない。
使っていた1台1台へのテレビへの思い入れ、というのは、やはり私の世代にしかないものなのだろう。