naokichiオムニバス

66歳会社員。ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

「昔はなかったもの」~携帯電話

シリーズ「昔はなかったもの」。だいぶ間が空いてしまいましたが・・・。

今回は携帯電話の話。
っていうか、それ以前に電話そのものだ、そもそも。

私が子供の頃って、どこの家にも電話があるってわけではなかったように記憶する。
物心ついた時、私の家には電話はあったと思う。黒い電話。
市外に電話をかける時は、電電公社の交換手を呼び出してつないでもらっていたんじゃなかったかな。
子供の私は電話をかけなかったんで、よくおぼえていないが。

74年(昭和49年)、大学に入学し、親元を離れて小平で下宿生活を始めた時、自分の部屋(四畳半一間、トイレ共同)には、電話はなかった。
他の部屋の学生たちも、たぶん電話は引いていなかったと思う。

大家の家の台所に電話があって(これも黒い電話)、かかってきた電話は、大家が取り次いでくれた。
こっちからどこかにかけたい時は、その台所に行って、「すみませ~ん、電話使わせて下さい」と断って、「100番通話」(若い人は知らないだろうなあ)で、かけた。

76年(昭和51年)、3年生になって、通学先が小平から国立のキャンパスに変わったのに伴って、国立駅近くのアパート(六畳一間、トイレ付き)に引っ越した。
ここの大家は電話の取り次ぎをしてくれなかった。
当時つきあっていた女子も一応いたのだが、いったいどうやって連絡をとっていたのか、今になると定かでない。

2年住んだこのアパートで、確か4年生の時だったと記憶するが、大学オケの先輩か誰かから電話(黒い電話)を譲ってもらった。
これは嬉しかったなあ。
この頃になると、オケの友人で自分の部屋に電話を持っている者も増えてきたので、そこはヒマをもてあました学生生活、昼に夜に、互いに電話をかけ合ってはバカ話をしていたものだ。

あの頃、市内通話って、いくら話してもタダだったかな。そんなことはないか、3分10円だったか。
東京23区内は市内扱いだから、江戸川、江東から杉並、世田谷にかけても安かった。
当時つきあっていた女子(一応前記とは別の女子)は三鷹在住だったので、国立から距離的にはそう遠くないのに、市外料金。これはこたえたものだ。

78年(昭和53年)、就職して、最初に住んだのが、北浦和にあった独身寮。
確か、各部屋に電話を引いてはいけない、という決まりだったと思う。
寮の食堂に黒い電話があって、かかれば近くにいて電話をとった者が呼びに行き、かけたければこれまた100番通話で、通話料金をノートに記録するという方式だった。

あ、ここまで黒い電話、黒い電話と書いているが、電電公社から一般家庭に支給(?)される電話はそれしかなかったのだ。
それから、大事なことを書き忘れていたが、ここまでの電話は、すべてダイヤル式。
職場の電話もダイヤル式だった。
プッシュホンが出てくるのはまだ後のことだ。

さて、携帯電話の話に急ごう。
と言いつつその前に・・・。

私は、83年(昭和58年)から87年(昭和62年)まで、現場の工事事務所勤務だった。
所長や工事担当者は、だいたい日中は、営業に行ったり現場に行ったりで留守になる。総務担当の私と女子事務員が事務所に残る、というパターンだ。
例えば、得意先から事務所に電話がかかってきて、どうしても所長に連絡をとりたい、という時、どうしていたか。

ポケットベル、ポケベルである。
マッチ箱くらいの大きさの、黒い皮のカバーに入ったポケベル。
所長のポケベルに電話をかける。
「呼び出しています。電話を切って先方からの連絡をお待ち下さい」と電子音声が応答。
しばらくして所長から電話が入る。
「○○建設の××さんが電話ほしいそうです」
「わかった」

そんなことやってたんですよ。信じられないですね。
呼び出された側は、公衆電話をさがして電話してくる。
施工現場が山の中だったりすると、折り返し電話しようにも、近くには公衆電話がなく、車で山を下りなければならない、なんてこともよくあった。
私「電話、かかってこないねえ」
事務員「近くに電話がないんじゃないですか」
ほんとに今から思うと非効率的なことやってたものだ。

ポケベルで思い出したが、国武万里という歌手の「ポケベルが鳴らなくて」という歌があった(作詩:秋元康、作曲:後藤次利)。
この歌が、今ネットで調べたら、93年(平成5年)のヒット曲らしい。
もう14年も前なんだ。

一般市民が携帯電話を持てるようになったのはいつ頃からだっただろうか。
だから、93年よりは後なんだろう。

私が初めて移動通信体を持ったのは、97年(平成9年)のことで、PHSだった。
固定電話しか知らない者が、初めてPHSを顔の脇に当てた時の第一印象は、「心もとない」だった。
固定電話の受話器は、口と耳にに当てる部分がゴツくふくらんでいて、ブツブツの穴が開いていた。
しかし、PHSは、まず長さが短かったし、口のところには、針で開けたような穴が一つだけ。
一体これで自分のしゃべる声が相手に聞こえるんだろうか、と思ったものだ。

(当時、労働組合の専従の仕事をしていた。4人の専従役員が、手分けして全国を出張することが多かったが、そんな職場であっても、PHSなり携帯電話を業務用に持って歩こうという感覚は、まだなかった。NTTの「クレジット通話」というサービスがあって、専用のカードを公衆電話に差し込み、暗証番号を打ち込むと、通話料は後日請求がくるシステムだった。地方から事務所への連絡には、これを使っていた)

そして、PHSを5年半使った後、03年(平成15年)の正月に、Docomoの携帯電話を衝動買いした。
先日機種変更して2台目になったが、今でも使っている携帯電話がそれである。

以前も書いたが、電車の中で、乗客の多くが、立っていても座っていても、携帯電話のディスプレイを見つめながら指を動かしている光景というのは、どうだろう、10年前にはなかったのではないだろうか。
我々は徐々に慣れてきたから、今では何とも思わないが、当時の人間が、今にタイムスリップしてきたら、「この人たちは、一体何をやっておるのか?」と思うに違いない。異様な、理解不能な光景だろう。

今は、子供でも携帯電話を持っている。ぜいたくな話だ。通学の安否の確認のため、持たせざるを得ないというのも、またせつない話だ。
これからの子供は、生まれた時から、携帯電話が身のまわりにある、という育ち方をするんだなあ。

それにつけても、上に書いた、固定電話時代。
今からふりかえれば、よくまあそんな不便な状況で過ごせていたものだ、と思う。

これも以前、駅の伝言板のことを書いたが、人との待ち合わせ一つとっても、伝言板でも使わなければ、連絡のとりようがなかった時代は、そんなに昔のことではない。今だからよくまあ、と思うが、当時にしてみれば、それしかないのであれば、最悪待ち合わせに失敗することも我慢せざるを得なかったのだ。

今日は女子の話ばかりしてしまうが、つきあっている彼女と、どうやって連絡をとるか、という時、私の世代の青春時代は、携帯電話も、携帯メールもなかったわけで、今から思うと本当に不便だった。
彼女が自宅住まいなんていう場合、電話する時、「親が出ずに本人がとってくれ」と祈ったものだ。こんな感覚、今の若い人は絶対わからないだろうな。自宅にいたって、自分の部屋で直に話せるんだし。

今は比較にならない便利さ。
別の言い方をすると、今は、「相手がすぐつかまらなければ不思議」という時代だ。これも善し悪しだが。

最後に、歌の歌詩の話。

古いテレビドラマの再放送を見て、電話ボックスの黄色い公衆電話なんかが出てくると、「あったねえ、こういうの」とか思う訳だが、歌でも、時代は歌詩に反映される。

電話をテーマに書いていて、思い出したのが、「加速度」と「住所録」。
いずれもさだ(まさし)さんの、私が好きな曲だ。

「加速度」(78年「私花集」収録)には、
  「最後のコインが今落ちたから
      今迄のすべてがあと3分ね」
という一句がある。
緊迫感と臨場感のある、何とすばらしい歌詩だろうと思ったものだ。
しかし、今では「普通、ケータイくらい持ってるよなあ」という話になってしまう。

「住所録」(81年「うつろひ」収録)には、
  「住所録(アドレス・ノォト)を替える度
    消さねばならない人がある
      忘れるはずもない人を
        忘れるために消してゆく」
  「指が覚えたダイヤルを
      夜中にそっと廻してる」
というくだり。
これも、今なら、携帯電話のアドレスを「消去!」という世界。また、「指が覚えたダイヤル」も「廻す」のでなく「プッシュ」、いや、そうでなく、送信履歴からリダイヤル、ということになるのだろう。

古典落語では、例えば「藪入り」なんて言っても、今の若い聴衆には何のことだかわからない、ということがあるそうだ。

歌の世界でも、たかだか20年、30年のスパンで、そうしたことが出てきているわけだ。
しかし、さださんのような、息の長いアーティストを、こちらも息長く聴き続けてきて、時代の流れを歌詩に感じるというのも、とても面白いものだと思う。