昨日買った「レコード芸術」4月号。
吉田秀和氏の批評は、長年読んできた。いくつもの示唆を受けてきたが、今回の記事にも、勉強させられた。
勝手な要約だが、こんな内容だ。
実際、今回のセットについているライナー・ノーツに、カラヤン本人の談話が書かれている。
「マーラーは意識的に避けてきた」
「マーラーでは崇高から卑俗までの幅が極めて狭い」
吉田氏の考えでは、ドイツの伝統の中核にいた指揮者たちにとって、マーラーの音楽は何か料理す
るのが難しいものだった。
「マーラーは意識的に避けてきた」
「マーラーでは崇高から卑俗までの幅が極めて狭い」
吉田氏の考えでは、ドイツの伝統の中核にいた指揮者たちにとって、マーラーの音楽は何か料理す
るのが難しいものだった。
私が、この記事を読んで、なるほどと考えさせられたのは、その後である。
批評家が、「マーラーはこう」と考え、それに応じて採点するようになっているのは何故か?
「そういう事情のあった人が、この音楽をどう演奏するのか」を考えず、「この音楽はこうが望まし
い」と主張するのは、どうなのか?
い」と主張するのは、どうなのか?
深い話だと思った。
自分自身を振り返ってみて、長年のレコードコレクター生活で、あれこれの批評を読んだり、名盤選びの本などを見てくると、やはりカラヤンのマーラーというのは、ベートーヴェンやR.シュトラウス、ヴェルディなどとは違って、決して表舞台にあるものではない、という情報が蓄積されてしまう。
生意気にも「カラヤンのマーラーは、敢えて聴かなくても」などと思ったりしている。
しかし、吉田氏が書いているように、実際、カラヤンがマーラーを好きでなかったとしても、その彼が、商業上の理由で、録音しなければならなかった時、その録音に、その「事情」がどう出ているのか、を自分の耳で確かめることには、意味があるのだ。
それをせず、「マーラーだったらバーンスタインやショルティ」みたいな思考でとどまっているのは、もったいない話なのかもしれない。
生意気にも「カラヤンのマーラーは、敢えて聴かなくても」などと思ったりしている。
しかし、吉田氏が書いているように、実際、カラヤンがマーラーを好きでなかったとしても、その彼が、商業上の理由で、録音しなければならなかった時、その録音に、その「事情」がどう出ているのか、を自分の耳で確かめることには、意味があるのだ。
それをせず、「マーラーだったらバーンスタインやショルティ」みたいな思考でとどまっているのは、もったいない話なのかもしれない。
記事の終わりのところに、こういうことが書かれている。
「人間のやることの意義、あるいはおもしろみというものは、成功したものだけをみて判断するのではなく、そうでないものの中にも、もったいないくらい、深い意味のある場合だって、あるのだ」
この一文は、単に音楽に対する批評というだけでなく、私にとっては、会社での日常の仕事においても、銘記すべきことではないか、とさえ思った。