naokichiオムニバス

68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

カラヤンのマーラー~吉田秀和氏「之を楽しむ者に如かず」

昨日買った「レコード芸術」4月号。

吉田秀和氏の連載記事「之を楽しむ者に如かず」の、今回のテーマが、「カラヤンマーラーふたたび」。

今年は、カラヤンの生誕100周年なので、レコード各社から、カラヤンの音源があれこれ再発売されている。
グラモフォンから、マーラー交響曲集、歌曲集(7枚組)が出たのだが、それに関する記事だ。

吉田秀和氏の批評は、長年読んできた。いくつもの示唆を受けてきたが、今回の記事にも、勉強させられた。

勝手な要約だが、こんな内容だ。

  今回の記事は、カラヤンマーラー演奏が、初出当時、評判がよくなかった、という話から始まる。
  それは日本のレコード批評だけでなく、ヨーロッパにおいてもそうだったそうだ。

  カラヤンが、マーラーをとりあげるようになったのは割合遅い時期になってからだが、カラヤン
  限らず、ドイツの指揮者は、そもそもマーラーをあまりやらなかった。

  たぶん、カラヤンも、マーラーが肌に合わないところがあったが、音楽界の帝王と言われる存在で
  あるからには、やらざるを得なくなった面があるのではないか。

  実際、今回のセットについているライナー・ノーツに、カラヤン本人の談話が書かれている。
    「マーラーは意識的に避けてきた」
    「マーラーでは崇高から卑俗までの幅が極めて狭い」
  
  吉田氏の考えでは、ドイツの伝統の中核にいた指揮者たちにとって、マーラーの音楽は何か料理す
  るのが難しいものだった。

  そして、吉田氏は、改めて今回、カラヤンマーラーの5番を聴いて、「おもしろかった」と書いて
  いる。

  カラヤンの述べている、マーラーに対する「苦手な気持ち」がわかる。また、当時の日本のレコード
  批評が指摘していたことがわかる部分もある、と。

私が、この記事を読んで、なるほどと考えさせられたのは、その後である。

  カラヤンが生まれ育った環境から、マーラーの音楽に同化できない点があるのは、むしろおもしろ
  いことではないか?

  批評家が、「マーラーはこう」と考え、それに応じて採点するようになっているのは何故か?

  「そういう事情のあった人が、この音楽をどう演奏するのか」を考えず、「この音楽はこうが望まし
  い」と主張するのは、どうなのか?

  カラヤンにとって、肌に合わないものだったにしても、晩年に至るまで努力をしていたことが、こ
  れらの演奏からわかる。そういうことを私たちは簡単に忘れてはいけない。

深い話だと思った。

自分自身を振り返ってみて、長年のレコードコレクター生活で、あれこれの批評を読んだり、名盤選びの本などを見てくると、やはりカラヤンマーラーというのは、ベートーヴェンR.シュトラウスヴェルディなどとは違って、決して表舞台にあるものではない、という情報が蓄積されてしまう。
生意気にも「カラヤンマーラーは、敢えて聴かなくても」などと思ったりしている。
しかし、吉田氏が書いているように、実際、カラヤンマーラーを好きでなかったとしても、その彼が、商業上の理由で、録音しなければならなかった時、その録音に、その「事情」がどう出ているのか、を自分の耳で確かめることには、意味があるのだ。
それをせず、「マーラーだったらバーンスタインショルティ」みたいな思考でとどまっているのは、もったいない話なのかもしれない。

記事の終わりのところに、こういうことが書かれている。

「人間のやることの意義、あるいはおもしろみというものは、成功したものだけをみて判断するのではなく、そうでないものの中にも、もったいないくらい、深い意味のある場合だって、あるのだ」

この一文は、単に音楽に対する批評というだけでなく、私にとっては、会社での日常の仕事においても、銘記すべきことではないか、とさえ思った。

カラヤンマーラー。家のどこかに、5番のCDがあったはずだ。
さがして聴いてみよう。