10日(水)の朝刊に、小石忠男氏の訃報が載った。
長年読んできた批評家が、また一人亡くなった。
(ただ、2ヶ月前の9月号では執筆を休まれ、編集後記に「小石忠男先生ご療養のため」というコメントが書かれていた。翌月から復帰されたので、安堵していたのだが)
私がレコ芸を読み始めたのは、1972年1月号からだが、小石氏は器楽曲を担当されていた。
当時の月評の担当は以下の通りだった。
その後、80年1月号から、複数批評が導入された際に、小石氏は、大木氏とともに交響曲の担当になったと記憶する。
そして、先月発売の11月号まで、30年以上、交響曲の月評を担当されてきた。
小石氏の批評は、宇野氏や福永陽一郎氏のような過激な筆致ではなく、一貫して中庸の姿勢だった。
氏の文章の中では、「何の変哲もない」という言葉が頻繁に用いられたのが印象に残っているが、つまり、特別奇をてらったり、新味を打ち出したりするのではない、表面的には「何の変哲もない」解釈の中に、その演奏ならではの美点を見いだそうとする批評姿勢だったと思う。
特定の演奏家をひいきするということもなかったように思う。
面白みという点では、やや欠ける面があったのは事実かもしれない。
近年は、交響曲の月評は、宇野氏とのコンビだったので、同じ音源をめぐって評価が分かれることが多く、非常に面白かった。
小石氏は、「私がカラヤンを評価するのは、たびたびの来日の際に聴いた演奏の感動であり・・・スタジオ録音より高く評価したい」「もしもカラヤンを録音だけで聴いておれば、現在の評価はなかったかもしれない」として、推薦盤にしている。
一方の宇野氏は、「後世に遺す価値があるものとは少なくともぼくには思えない」としていたのが、好対照だった。
一方の宇野氏は、「後世に遺す価値があるものとは少なくともぼくには思えない」としていたのが、好対照だった。
(私は、この全曲盤はすべて買った。5・6・9番は未聴だが、既に聴いた6曲はどれもすばらしく、このコンビの実演を聴かずに終わったことを悔やんだ)
来週発売される12月号には、おそらく小石氏の月評は載っていないだろう。
また一人、長年お世話になった批評家が去った。あの、初期のビートルズを連想させるマッシュルームカットの小石氏はもういない。さみしくなった。