浦安オケの練習予定は、弦と管のインペクが、指揮者やトレーナーと相談して決め、団内に周知される。
つまり、ヴィオラだけが練習なしという発表だったのだ。
で、ですね。私としては、「練習ないのか、ラッキー!」と思っていたのです。日曜日には珍しく、1日ゆっくりできる、と。
急ぎ、ヴィオラのメンバーにこの話を流して、出欠の確認をしたのだが、練習がない前提で既に別の予定を入れてしまったなどの理由で、全員欠席。
私は当初出るつもりでいたのだが、まことに異例な話で、日曜日なのだが、栃木に日帰りで出張することになってしまった(もう少ししたら出かけます)。
ということで、ヴィオラは全滅。Ydさんにはその旨メールでお伝えし、今日の練習は、当初予定通りのヴァイオリンの自主練になってしまった。
で、思ったのだが、このことって、「ヴィオラ弾きの性格」が多分に影響しているんではあるまいか?
あるいは、「エニグマ変奏曲」だとか、「マノン・レスコー」の間奏曲なんかのように、ヴィオラのトップにソロを弾かせるなんていう、ほんとに余計なお世話(笑)を書く作曲家もいて、で、これは私の場合なんですが、本番でみごとに玉砕したりする(爆)ことになります。
学生時代、津田塾大学の弦楽合奏団「アンサンブル・フィオリータ」が、バッハの「フーガの技法」を演奏したことがある。演奏会のプログラム冊子に、「パート紹介」というのが載っていたが、ヴィオラのパート紹介には、こう書かれていた。言い得て妙、とその時思ったものだ。
「日頃はあまり日の目を見ないこのパートも、今回はフーガという曲の性質上、時々皆様の視線
を一手に引き受けることになりました。(中略)中庸の道を歩み、マカロニサラダのポテトの如く、
ポテトサラダのマカロニの如く振舞って来た私達も、とうとう修羅の巷の何たるかを知る羽目にな
ったのです(後略)」
を一手に引き受けることになりました。(中略)中庸の道を歩み、マカロニサラダのポテトの如く、
ポテトサラダのマカロニの如く振舞って来た私達も、とうとう修羅の巷の何たるかを知る羽目にな
ったのです(後略)」
で、今回なのだが、練習予定が発表されて、ヴィオラだけが取り残されている状況だった時に、どうして、パートの中で、誰か、「ねえ、ヴィオラだけでパート練習をしませんか」とか、「ヴァイオリンの自主練に混ぜてもらいましょうよ」とか言う人が、一人もいなかったのか?
全員、お休みでこれ幸い、と思ってしまったんだろうか?
少なくとも、私にそういう発想がまったくなかったのは、やっぱりヴィオラ弾きだからではないのか?
と気づいたのでした。
他のパートメンバーがどうだったかは、わかりませんが・・・。