本番2ヶ月前の10月に、母を亡くした。
個人的には、今回は、ふだんの本番とは違った、様々な思いを経ての本番となった。
母が急逝した直後は、やはりオケや楽器のことは考えられなかった。この市民演奏会も出る気になれなかった。
色々な後始末などで、やらねばならないことも多く、練習を1ヶ月休んだ。
色々な後始末などで、やらねばならないことも多く、練習を1ヶ月休んだ。
しかし、自分自身の立ち直りのためには、普段通りの生活、特にオケが必要だと思うようになり、復帰して、本番をめざすことにした。
※関連の過去記事 「オケ練復帰へ」
https://naokichivla.hatenablog.com/entry/60431330
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公私とも忙しい日々が続き、肉体的にも少々苦しい状況で本番を迎えることになった。
そして終演。カーテンコール。
満席の聴衆からの拍手を浴びながら、母の死から今日までの日々を思い出していた。
心身両面で、多少なりとも苦しいことがあったが、この本番まで乗り切ることができた、と思った時、涙がにじんだ。
心身両面で、多少なりとも苦しいことがあったが、この本番まで乗り切ることができた、と思った時、涙がにじんだ。
客席には、母の姉(私には伯母)がいた。
伯母は、現役の頃には音楽教師だった。浦安の演奏会もしばしば聴きにきてくれている。
この市民演奏会のことも早くから知らせ、聴きにくるとの返事をもらっていた。
この市民演奏会のことも早くから知らせ、聴きにくるとの返事をもらっていた。
そこへ、母の急死。
実は、亡くなった母と、最も仲がよかったのがこの伯母だ。
実際、母が亡くなったその日、母は木更津から千葉まで出かけて、伯母と会って食事をしている。帰宅した後に倒れて亡くなったのだった。
実は、亡くなった母と、最も仲がよかったのがこの伯母だ。
実際、母が亡くなったその日、母は木更津から千葉まで出かけて、伯母と会って食事をしている。帰宅した後に倒れて亡くなったのだった。
妹の突然の死の報に、信じられない思いだっただろうし、仲がよかっただけに、一番嘆き悲しんだのも伯母だった。
葬儀が済み、上記のように、市民演奏会をどうするのか、まだ決めかねているところに、その伯母から電話があった。
「12月の演奏会は、聴きに行くからね」。
「12月の演奏会は、聴きに行くからね」。
母の死を一番悲しんでいた伯母からの一声。何と言うのか、「先手を打たれた」とでもいう思いがした。
オケ練に復帰し、予定通り本番をめざそう、と決めたのは、伯母が背中を押してくれたからだ。
その伯母が、客席で拍手をしてくれているのが見えた。
個人的な出来には、不本意な部分もあったが、「出てよかった」、そう思った。
母の遺影を、開演前に、舞台裏の楽器ケースの中に置いた。
日頃クラシック音楽を聴くわけではない母が、浦安オケの演奏会を聴きにきたことは、数えるほどしかない。
しかし、今回だけは、やっとたどりついたこの本番の舞台、同じ板の上にいて、演奏を聴いてもらいたい、と思った。
しかし、今回だけは、やっとたどりついたこの本番の舞台、同じ板の上にいて、演奏を聴いてもらいたい、と思った。
これはいつも思っていることだが、私に音楽を与えてくれたのは、母であり、そして父だ。
私の音楽歴については、このブログでは、「音楽「自分史」」のカテゴリーに、いくつか記事を書いている。
子供の時に、オルガン、ピアノを習わせてくれたのは両親だ。
父は、地元の信用金庫勤めで、格別高給取りだったわけではないはずだが、私や妹が望めば、ピアノを、電子オルガンを、ギターをと買い与えてくれた。
父は、地元の信用金庫勤めで、格別高給取りだったわけではないはずだが、私や妹が望めば、ピアノを、電子オルガンを、ギターをと買い与えてくれた。
その後、ピアノからは離れたが、大学入学後に始めたヴィオラは、今でもこうして続けている。
50代も半ばに近づこうという歳になるが、自分の生活の核は、一貫して「音楽」で、その中でも、間もなく入団丸15年になる、浦安のこのオケにおいて、いつもかけがえのない幸福を感じさせてもらっている。
それも、すべて、両親のおかげだ。
もちろん、育ててもらったこと、大学まで出してもらったこと、すべて親への感謝なしにはありえないことだが、とりわけ、自分の人生に音楽があること、これが一番だと思っている。
もちろん、育ててもらったこと、大学まで出してもらったこと、すべて親への感謝なしにはありえないことだが、とりわけ、自分の人生に音楽があること、これが一番だと思っている。
その感謝の気持ちを、遺影の母に聴いてもらいたかった。
そんな、さまざまな思いがうずまく中、私にとっては特別な本番が、終わった。