おお、そろそろか、と購入した。
「とと姉ちゃん」は、企画が発表された時から、これは観なければ、と決めていた。
私に「暮しの手帖」を語らせたら長いよ~。
母が毎号買って読んでいたので、子供の頃から「暮しの手帖」は私の身近にあった。
幼い私は、毎号の表紙をおぼえていて、「(表紙が)木の椅子が並んでいる写真なのは○○号」などと、全部言えたと言う。
たぶん小学生の頃から、中身も読み始めた。
これは今でも続いていることだが、他社の広告を一切載せないこと。不偏不党を貫くためであり、自分の雑誌を汚されたくないという編集者の美意識だったと聞く。
そして、何と言っても「商品テスト」。まだ日本が豊かでなく、家電製品一つ買うにも決意が要った時代、人手と手間をかけて、愚直に、商品を実際に使って試すことで、その優劣を何の遠慮も容赦もなく、はっきりと表明した。
私の実家では、何を買う場合にも、「暮しの手帖」の商品テストを参考にした。
アラジンの石油ストーブ「ブルーフレーム」、ブラウンのシェーバー等々。
長い期間に、同種の商品のテストを繰り返す中で、評価も変遷する。石油ストーブについて、当初推薦していたアラジンの商品について、「私たちは今回のテストでアラジンを見限った」と断じたこともある。
広告をとらないことで、何にも制約されない断固たる評価を貫く姿勢に感銘を受けたものだ。
歯に衣を着せぬ主張は、商品テスト以外にも色々あった。
世に出始めた食器洗い機を「愚劣」と評価し、電子レンジは「温め直しの道具に過ぎない」と断じた。
「ポッカレモン」にビタミンCが含まれていないと指摘したことがあった。
ビスケット類の添加物を調べ、着色料等が一切入っていないものは、森永の「チョイス」など僅かしかないことを紹介した。
それから、石油ストーブが倒れて火を出した時に、バケツの水をかければ消えることを記事にした。その当時、油の火災に水は禁物、という認識が一般的で、水をかけることの当否について、消防庁も巻き込んだ議論になったと記憶する。
これらはすべて、戦後の貧しい時期に、「美しい暮しの手帖」という誌名でスタートして以来、同誌が貫いてきた、「庶民の生活をよりよく安全に」という方針に基づくものだったと思う。
それから、通巻第96号では、通常の記事を一切載せず、読者から募集した「戦争中の暮しの記録」だけで埋めた。「たとえぼろぼろになっても、この1冊だけは、これから生まれてくる人のために残していってほしい」というメッセージが載っていた。これも強く記憶に残っている。
「暮しの手帖」、大橋氏、花森氏に共通していたのは、一種の反骨精神のようなものだったのだろうと思う。小学生、中学生の頃の私は、それに強く印象を受けた。
通巻第100号を迎えた時、読者から、「100号に寄せて」という文章を募集したので、中学生の私は、自分なりの「暮しの手帖」への思いを綴って応募した。紙面には載らなかったが。
この際、次の号を101号とせず、初心に立ち返る、ということで、「第2世紀第1号」としたのにも、そういう発想があるのか、と驚いた。現在は、第4世紀である。
それから、「手帖通信」というハガキ。最新号が発行される時期に、「暮しの手帖○号ができあがりました」という書き出しで、内容を紹介するハガキが、木更津の母に、また私にもいつも届いた。宛名は万年筆の手書きだった。広告を取らない経営の中、コストもかかっただろうに、読者へのそうした誠実な呼びかけには、いつも感銘を受けた。
ある時期から、「暮しの手帖」は、私が買って、木更津に帰省する時に持って帰って母に渡すようになった。
時代の流れの中で、例えば商品テストは時勢に合わなくなってきたところがあったし、花森氏の逝去と関係があるだろうが、誌面から、上記のような「暮しの手帖イズム」とでも言うべきものが、少しずつ失われてきたように、私には感じられた。
母も亡くなった今、「暮しの手帖」は、書店の店頭で手に取るにとどまるようになった。
楽しみに観たいが、それにしても、母が存命の間に、この企画が実現していたなら、とつくづく思うのである。
実家では、今でも、第1世紀からの「暮しの手帖」が、母が生前座っていた場所の後ろの書棚に並んでいる。