今場所から、審判部では、立ち会いの手つき不充分について、厳しく扱うようにしているようだ。
少し前、武蔵川親方が理事長に就任した際も、同じ方針を打ち出し、少なからず混乱があったように記憶するが、今場所も同様に推移していると感じる。
これまでのところ思うことは二つ。
まず、手をついた、つかないについての判断に一貫性がなく、曖昧に運用されているように感じること。
あの一番を止めたのに、何故この一番は成立なんだろう、と思われることも少なくないが、同じ取組の中で、1回目の立ち会いで、手つき不充分として止められた力士が、2回目も同じような立ち会いをしても止められないケースもあって、首をかしげざるを得ない。
6日目の、豪栄道=琴勇輝も、疑問が残る一番だった。私には、琴勇輝の手つきが不充分に見えたが、NHKの放映によれば、正面の藤島審判長は、豪栄道に注意を与えたようだ。豪栄道は、手をついていたと見えたのだが。
一貫性のない判断に翻弄されるのでは、力士が気の毒だ。立ち会いをやり直すことが、力士に対してどの程度の影響を与えるのか、私にはわからないが、力士OBである審判には経験上わかるはずなので、判断を厳しくするのであれば、公平な運用であってもらいたいと思う。
思うことのもう一つは、「つまるところ、立ち会いはどうあるべきなのか」という、根本的な問題だ。
今は、いわゆる「チョン立ち」であっても、土俵に手が接触すれば見逃されることが多く、両手とも空中に浮かせたままで立つことが咎められているように見える(ただ、そうであってもその判断が一貫しないように見えるのは、前述の通り)。
ただ、そもそも立ち会いというのは、それでいいのだろうか。
模範的な立ち会い、あるべき立ち会いとは、どういうものなのか。それが、方針として打ち出されず、手が土俵に接したかどうかだけで、相撲を止める止めないになっていていいのだろうか、という気がするのだ。
日頃、相撲を観ていると、蹲踞の後に腰を割ってから、相手力士が手を下ろすまで、自分は腕を太腿の上に載せて待っている力士が多い。相手に手を下ろさせてから、自分のタイミングで手を下ろして有利に立ちたい、という意図がうかがえる。これは、学生相撲出身力士に多いように思う。
お互いに同じことを考えて、両者なかなか手を下ろさない場合があるが、これは非常に見苦しいと感じる。
これだけの幅の中で、あるべき立ち会いというのは何なのか。
両手をつかなければならないのか、片手でもいいのか、という問題もある。
私の感じだと、立ち会いに際しては、まず両力士とも、最低片手は土俵につく体勢をとることを義務づけ、その上で、互いの呼吸で立ち上がるということでどうか、と思う。その時、もう片手はついてもつかなくてもよい、として構わないと思う。
これは、素人の私見に過ぎないが、観戦者の立場からすると、前記の、両者なかなか手を下ろさない立ち会いよりは、ずっと望ましいし、少なくとも片手はまずつく、とすれば、手をついた、つかないの面倒な判断も要らなくなるので、力士にとっても悪い話ではないように思う。