同じマンションの別の階に、T氏という知人がいる。
日頃、音楽関係の活動で交流があるのだが、少し前に、T氏との間で、千葉県少年少女オーケストラや、その音楽監督である佐治薫子先生のことが話題になった。
その折、T氏が所有している、「バッハ先生と1000人の子どもたち」(森玲子著)という本を貸してくれた。見返しのところに、佐治先生のサインが書かれている。

佐治先生は、1935年生まれ、木更津市出身。千葉県の音楽教育における一大功労者として著名な方だ。
私は直接の面識がないが、今、浦安オケで一緒に演奏しているメンバー、あるいは元団員、またエキストラでお世話になっている方の中には、佐治先生の薫陶を受けた人が何人かいるので、これまでには先生の話を聞く機会が何度かあった。
この本は、佐治先生が音楽教育に身を投じてから、千葉県少年少女オーケストラの音楽監督に招かれるまでの一代記である。
その女性教師は、近く結婚することになったが、転任を命ぜられた上総松丘の中学校に通えないので、緑中と替わってもらえないか、と頼む。
この頼みを引き受けた佐治先生は、赴任先の松丘中学校でリード合奏を始め、バッハの曲もとりあげるようになったことから「バッハ先生」と呼ばれるに至る。
その際、楽器の調達を始めとする活動支援を行ったのが、木更津のヤスムロ楽器店なのだが、木更津出身の私にとっては、懐かしい名前である。
佐治先生の厳しい指導の甲斐あって、全日本学校器楽合奏コンクール、全日本リード合奏大会に出場、優秀な成績を収めるようになる。
その後、船橋の前原小学校に転任し、リード合奏団をオーケストラへ発展させる。この時期の記述には、現在指揮者として活躍されている田久保裕一氏、現田茂夫氏の名前が出てくる。田久保氏はコントラバス、現田氏はチェロ。
前原小学校は、TBSこども音楽コンクールで日本一になるが、その時の曲目が「フィンランディア」、「エグモント」序曲だったと書かれている。
佐治先生は、前原小学校の後、習志野市の谷津小学校に転任し、管弦楽クラブを育て、田久保氏に後を託して、今度は市川市の鬼高小学校へ転任する。鬼高小学校の管弦楽部も、TBSこども音楽コンクールで日本一になる。
併せて、ウインドミル・オーケストラの結成と発展についても記されている。第1回の演奏会の指揮は田久保氏、そして、その後、現田氏が常任指揮者になる。
上総松丘のリード合奏で始まった、佐治先生の音楽教育、「佐治トーン」と呼ばれる音楽が、県内にひろがり、たくさんの弟子たちが成長していく記述を、感動を覚えながら読んだ。
(また、前原小、谷津小、鬼高小、少年少女オケの演奏を収めたCDまで付いている)
名簿の中に、オケ仲間の名前が何人も載っているのを見つけた。日頃一緒に演奏している仲間たちのバックボーンには、この本で読んだ佐治先生の厳しい指導があることを、改めて認識した。
本の中に、なかなか弾けるようにならない子供に向けた、佐治先生の言葉が載っている。
「人が30回なら300回練習しなさい。それでもだめなら3,000回やりなさい」。
「涙なんか出さずに音を出しなさい」。
300回、3,000回。
以下は、きわめて個人的なことだが・・・。
実は、この本の冒頭に出てくる女性教師というのは、私の伯母(母の姉)である。
そのことを機に、この本に書かれたさまざまなご苦労やドラマを経て、多数の門下生が生まれた。
私が今日、佐治先生の門下生と知り合い、一緒に演奏できているのも、伯母にそのきっかけがあったから、ということになるのか。
仮に伯母のことがなく、佐治先生が緑中に赴任していたとしても、同様の経歴、同様の功績をおさめられたかもしれないと思いつつも、人の縁というものの不思議さを感じる。
さてこの本、貸してくれたT氏に返さねばならないが、何とか自分も手元に持ちたいと思い、ネット検索してみた。
あいにく、この本そのもの(D.ブレイン社、2003年7月)は見つからなかったが、二期出版というところから刊行されたものが2種類、アマゾンで入手できた。
1987年11月の初版、1994年2月の新版(これもサイン本だった)。あいにくCDは付いていない。
D.ブレイン社から刊行されたこの本は、今回アマゾンで入手したものの復刻版にあたり、終章が書き足されている。
1987年11月の初版、1994年2月の新版(これもサイン本だった)。あいにくCDは付いていない。
D.ブレイン社から刊行されたこの本は、今回アマゾンで入手したものの復刻版にあたり、終章が書き足されている。

加えて、「ひろがれ、ぼくらのハーモニー」という別の本も見つかったので併せて入手した。1991年1月、講談社。

いずれ、今回読んだ本もどこかで探して買い求めたい。