naokichiオムニバス

68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

バッハ先生と1000人の子どもたち

同じマンションの別の階に、T氏という知人がいる。

日頃、音楽関係の活動で交流があるのだが、少し前に、T氏との間で、千葉県少年少女オーケストラや、その音楽監督である佐治薫子先生のことが話題になった。

その折、T氏が所有している、「バッハ先生と1000人の子どもたち」(森玲子著)という本を貸してくれた。見返しのところに、佐治先生のサインが書かれている。

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佐治先生は、1935年生まれ、木更津市出身。千葉県の音楽教育における一大功労者として著名な方だ。

私は直接の面識がないが、今、浦安オケで一緒に演奏しているメンバー、あるいは元団員、またエキストラでお世話になっている方の中には、佐治先生の薫陶を受けた人が何人かいるので、これまでには先生の話を聞く機会が何度かあった。

この本は、佐治先生が音楽教育に身を投じてから、千葉県少年少女オーケストラの音楽監督に招かれるまでの一代記である。

20歳の時、千葉大学を卒業して千葉市の緑中学校に勤めることが決まっていたのだが、ある日、見知らぬ女性教師の訪問を受ける。

その女性教師は、近く結婚することになったが、転任を命ぜられた上総松丘の中学校に通えないので、緑中と替わってもらえないか、と頼む。

この頼みを引き受けた佐治先生は、赴任先の松丘中学校でリード合奏を始め、バッハの曲もとりあげるようになったことから「バッハ先生」と呼ばれるに至る。

その際、楽器の調達を始めとする活動支援を行ったのが、木更津のヤスムロ楽器店なのだが、木更津出身の私にとっては、懐かしい名前である。

佐治先生の厳しい指導の甲斐あって、全日本学校器楽合奏コンクール、全日本リード合奏大会に出場、優秀な成績を収めるようになる。

その後、船橋の前原小学校に転任し、リード合奏団をオーケストラへ発展させる。この時期の記述には、現在指揮者として活躍されている田久保裕一氏、現田茂夫氏の名前が出てくる。田久保氏はコントラバス、現田氏はチェロ。

前原小学校は、TBSこども音楽コンクールで日本一になるが、その時の曲目が「フィンランディア」、「エグモント」序曲だったと書かれている。

佐治門下のオケ仲間からは、「フィンランディア」やベートーヴェンが、門下生にとっては特別な曲だと聞いたことがある。この時からの伝統なのだろう。

前原小学校を卒業して中学校に進んだOB、OGたちが、シューベルトの「鱒」を演奏することになり、これが、後年、ウインドミル・オーケストラの結成につながったとも書かれている。

佐治先生は、前原小学校の後、習志野市の谷津小学校に転任し、管弦楽クラブを育て、田久保氏に後を託して、今度は市川市の鬼高小学校へ転任する。鬼高小学校の管弦楽部も、TBSこども音楽コンクールで日本一になる。

併せて、ウインドミル・オーケストラの結成と発展についても記されている。第1回の演奏会の指揮は田久保氏、そして、その後、現田氏が常任指揮者になる。

そして、千葉県少年少女オーケストラ。再度赴任した谷津小学校を最後に教職から退くつもりだった佐治先生に、沼田武千葉県知事から音楽監督就任の要請があり、受諾。石丸寛氏、井上道義氏らを招聘して発展させた。

上総松丘のリード合奏で始まった、佐治先生の音楽教育、「佐治トーン」と呼ばれる音楽が、県内にひろがり、たくさんの弟子たちが成長していく記述を、感動を覚えながら読んだ。

巻末には、松岡中学校リード合奏団、前原小学校合奏クラブ、谷津小学校管弦楽クラブ、鬼高小学校管弦楽部、千葉県少年少女オーケストラの名簿が載っている。

(また、前原小、谷津小、鬼高小、少年少女オケの演奏を収めたCDまで付いている)

名簿の中に、オケ仲間の名前が何人も載っているのを見つけた。日頃一緒に演奏している仲間たちのバックボーンには、この本で読んだ佐治先生の厳しい指導があることを、改めて認識した。

本の中に、なかなか弾けるようにならない子供に向けた、佐治先生の言葉が載っている。

「人が30回なら300回練習しなさい。それでもだめなら3,000回やりなさい」。

「涙なんか出さずに音を出しなさい」。

今、浦安オケの6月の定期演奏会に向けて、難しいラフマニノフに苦心している私には、この本の中で、一番心に残ったありがたい言葉だ。

300回、3,000回。

以下は、きわめて個人的なことだが・・・。

実は、この本の冒頭に出てくる女性教師というのは、私の伯母(母の姉)である。

このブログにもたびたび登場している伯母は、木更津市出身で、千葉市に嫁ぐにあたり、佐治先生に赴任先の交換を頼んだ。

そのことを機に、この本に書かれたさまざまなご苦労やドラマを経て、多数の門下生が生まれた。

私が今日、佐治先生の門下生と知り合い、一緒に演奏できているのも、伯母にそのきっかけがあったから、ということになるのか。

仮に伯母のことがなく、佐治先生が緑中に赴任していたとしても、同様の経歴、同様の功績をおさめられたかもしれないと思いつつも、人の縁というものの不思議さを感じる。

さてこの本、貸してくれたT氏に返さねばならないが、何とか自分も手元に持ちたいと思い、ネット検索してみた。

あいにく、この本そのもの(D.ブレイン社、2003年7月)は見つからなかったが、二期出版というところから刊行されたものが2種類、アマゾンで入手できた。
1987年11月の初版、1994年2月の新版(これもサイン本だった)。あいにくCDは付いていない。
D.ブレイン社から刊行されたこの本は、今回アマゾンで入手したものの復刻版にあたり、終章が書き足されている。

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加えて、「ひろがれ、ぼくらのハーモニー」という別の本も見つかったので併せて入手した。1991年1月、講談社

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いずれ、今回読んだ本もどこかで探して買い求めたい。