naokichiオムニバス

66歳会社員。ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

音楽「自分史」~大学オケ時代、卒業

大学では経済学部に籍を置いていたが、実は音楽学部だったと言えるほど、音楽三昧の学生生活であった。
キャンパスでも、教室でよりはオケ部室で過ごす時間の方が長かったし。

大学オケでは本当に楽しんだ。

前に書いた演奏旅行。
沼津、清水(ここでは静岡大学管弦楽団との合同演奏会)、名古屋、木祖村(子供相手の音楽教室)、松本とまわった旅は今でも印象深い。

そして、2年生の秋、入学時にサークル選びの決め手となった「第九」演奏会。
これは、現在に至るまでのオケ活動の中でも、やはり最高の体験の一つである。
自分がこの演奏会に関われる年に生まれたことを心底感謝したものだ。
例えば、1年遅く生まれて、その年に入学し、初心者でヴィオラを始めていたら乗れなかった筈だから。

建学100周年を記念したこの演奏会は、私の大学の管弦楽団男声合唱団、津田塾大学との混声合唱団、津田塾大学の女声合唱団が参加してのイベントであった。
しかも会場は上野の東京文化会館
私の在学当時、演奏会には、杉並公会堂立川市市民会館、世田谷区民会館などを使っていたのだが、ふだんは有名演奏家の演奏会を聴きにきている、あの文化会館で演奏できるとあって、大いに興奮したものだ。

津田塾大学で初めて合唱合わせをした時、合唱の最初の「Freude!」の一声を聴いて、全身にふるえが走ったことは今でも忘れられない。
東京文化会館での本番は、満席であった。楽屋で支度をしていると、誰かが「すごい行列だぞ」と言いにきた。
行ってみると、確かに長蛇の列ができていた。
私は記念碑的イベントということで、父母を呼んでいたのだが、一番前の方に並んでいた。
そして舞台に出て、4階5階の客席までぎっしり埋まっているのを見上げた時の興奮も忘れられない。
演奏は悔いを残さず終了したが、一番最後のプレスティシモ、最後の最後に3つ和音を弾き切る1つ目を弾いた時に、弓を落としそうになったのを昨日のことのように覚えている。落としていたら、自分一人が文字通り落ちた形で曲の終結を迎えた訳で、必死に持ち直して最後まで弾けてよかったと今でも思う。

次の演奏会は3年生になったばかりの4月。
ここから選曲に一つの特徴が出る。
私の在学中、指揮者は毎回D.Hという王立音楽院卒のイギリス人であった。
イギリス人の指揮者なら練習は英語だったのか、という話になるが、何のことはない、このD.H氏、日本酒が好きで結婚相手も日本人という人物なので、流暢な日本語での練習だったのだ。
この定期演奏会から、D.H氏の希望で、イギリス音楽を毎回の演奏会でとりあげることになった。
この時は、エルガーの「コケイン」序曲、ディーリアスの「楽園への道」をやった。
おそらく学生初演であっただろうし、どうかすると日本初演だったかもしれない。

以後在学中は、ディーリアスの「夏の歌」、エルガーのチェロ協奏曲、ヴォーン=ウィリアムズの「ウォスプス(すずめばち)」序曲を演奏した。
こうした環境だったので、私を含めて多くの団員がイギリス音楽ファンになっていった。
(この路線は、D.H氏が離れるまで続き、私の卒業後、後輩たちは、エルガーの「序奏とアレグロ」やエニグマ変奏曲、ディーリアスのピアノ協奏曲、ホルストの「惑星」などを演奏している)

4年生になった時期の津田塾大学弦楽合奏団との合同演奏会も楽しかった。
3年生が団のマネージを担当していたので、演奏だけでなく運営面でも一番やり甲斐のあった時期だ。

この合同演奏会と次のサマーコンサートでは、トップに座ることになった。
人数が少ない故、上の学年が去っていけばそうなるのだが、同期に経験者のIがいたので、自分にまわってくるとは思っていなかった。
話し合いの末にやることになったのだが、いい勉強になったと思う。

そして、4年生の秋、苦労した就職活動も終わり、現役最後の定期演奏会
メインはドボ8であった。
最後の演奏会のメインは、終結の和音を長く延ばす曲の方が、感慨を味わえてよかったのにと、ドボ8だったことを残念に思ったものだ。

この演奏会後は、自分はもう卒業してしまう翌年4月の演奏会の練習に入った。
初めての試みであったが、本学と津田塾大学に加えて、東京学芸大学のオケとの3大学合同演奏会であった。
この練習には卒業まで顔を出し、リストのレプレやショスタコ-ヴィチの5番を弾いた。
本番は、東京近辺にはいたのだが、新入社員研修の日程がハードで、出るはもちろん聴きにも行けずに終わった。

しかし、研修後の配属が東京の本社だったので、以後1年間は、エキストラという形で、サマーコンサートから翌春の合同演奏会まで、3回の演奏会に出させてもらうこととなった。
入社2年目以降は次の卒業生も出てきたこともあってか、そうした縁もなくなっていく。

そして、会社生活が軌道に乗ってくるに従って、演奏そのものから離れていくことになった。
ふりかえってみると、私にとって、市民オケをさがして演奏活動を続けるという発想は当時まったくなかった。
大学オケとの縁の切れ目が楽器そのものとの縁の切れ目となった格好で、楽器は会社の独身寮の部屋の隅に置いたまま、さわることもなくなってしまう。

そんな入社4年目の年の夏頃、たまたま大学オケOBで飲んでいた際に、ふとしたはずみで秋の定期演奏会ヴィオラの人手が足りないという話になった。
中プロにシベリウスのヴァイオリン協奏曲をやるという。
この曲を偏愛していた私は、是非出たいと言って、結局この演奏会に出ることになった。
ソリストは当時まだ学生の古澤巌さんであった。綺麗な音だった。
この演奏会が、その後唯一出た本番。

以後はまったくそうした機会もなくなる。大学オケOBの集まりなどがたまにあった時に、楽器を持ち寄ってお遊びのアンサンブルをやる程度で過ぎていく。
「ケースを1回も開けなかった年」というのも全然珍しくなかった。
楽器は、以後の転居でも持ち歩いて身近には置いており、何というのか、存在を忘れてしまった訳ではなく、意識のどこかにはあった。
しかし、市民オケなど、弾く場を求める発想は依然として生まれず、仕事その他の忙しさにまぎれ、これも意識のどこかに「もう一生ヴィオラを弾くことはないかもしれない」とも思っていた。

ところが、ある日突然家にかかってきた1本の電話が、そんな私の生活を一変させる。
最後の古澤さんとの本番から数えて13年余りが経過していた頃である。
今の浦安のオケへの誘いであった。11年前のことだ。