naokichiオムニバス

68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

「与える」という言葉

3月の東日本大震災以後、芸能人やスポーツ選手が、「被災地の方々に、勇気を与えられたら」とか、「元気を与えられたら」とか、「感動を与えられたら」などという発言をするのを、しばしば聞く。

背後にある気持ちは、とてもよく理解できるのだが、個人的には、そのたびに違和感を持って聞いている。

「与える」という言葉がひっかかるのだ。

「与える」には、「上から下へ」という語感がないだろうか。それが理由だ。

「自分の歌(あるいはプレー)で、被災地の方々の中に、勇気づけられた(元気が出た、感動した)と言って下さる人がいたら嬉しい」というのだったら、自然に聞ける。

同じ状況下にあっても、その歌やプレーに接した人が、どう感じるかは、その人その人で違うだろうと思うのだ。

しかし、「与える」という言葉は、そうした要素が捨象され、どことなくニュアンスが違うように思えてならない。

「勇気を出してもらえたら」、「元気を出してもらえたら」、「感動してもらえたら」だったらいいんだけど・・・。

こんな(ひねくれた?)ことを考えているのは、私くらいかな。

などど、色々考えながら、まったく別の切り口に気がついた。

例えば、来月、我々のオケは、市民合唱団の皆さんと、浦安市民演奏会を行う。

関東圏では特に被害甚大だった浦安市民の皆さんに、勇気や元気や感動を与えるために、とかは、少なくとも私は考えていない。
(震災の辛い思いをいっときでも忘れて、楽しんでほしいとは思うが)

というか、考えられない。

それは、たぶん、勇気や元気や感動を与えるような演奏ができるかどうか、と思ってしまうからだ。

また、アマチュアの立場だから、聴衆を楽しませるというだけでなく、演奏する自らが楽しむという側面もあるし、さらに演奏する側にも被災した人がいるという事情もある。

つまり、ステージと客席が、本質的に対峙した関係にないからだろう。

それに思い至った時、「与える」と発言できる、プロのミュージシャンや、スポーツ選手は、やはり、自分の音楽やプレーに、相当な自信や自負を持っているからなのかもしれない、と気がついた。

自分にはそれができる、という気持ちが、「与える」という言葉につながっているのかもしれない。

私のような一個人とは違う次元にいるということなんだろう。違和感、とか言ってはいけないのかもしれない、と思う。