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68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

Deliusを「ディーリアス」と初めて呼んだ人

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昨日、ディーリアスのヴァイオリン・ソナタについて書いた際、昔はディーリアスのことを、「デリアス」と言っていた、と記した。

その変わり目になった雑誌の記事をご紹介しよう。

木更津の実家にその雑誌を置いてあったのだが、今日たまたま行く機会があったので、持って帰ってきた。

「ステレオ芸術」(ラジオ技術社)の1976年7月号だ。
私は大学3年生だった。

ルドルフ・ケンペの追悼記事が載っている。新譜評は、そのケンペのブルックナーの5番や、カラヤンロストロポーヴィチの「ドン・キホーテ」、同じくカラヤンとベルマンのチャイコフスキーのコンチェルトなど。懐かしい。

この号の特集が、「現代人のためのライブラリー」というものだった。

11人の音楽評論家が、それぞれのテーマで、10点のレコードを紹介している。

・ロックこそ“現代”を象徴するもの(相倉久人)   泉谷しげる「家族」他
・あえてジャズだけにしぼって(鍵谷幸信)   コルトレーンアセンション」他
・より積極性を求めるために(金森昭雄)   ベリオ「シンフォニア」他
・もっと静かな音楽が必要なのでは(三浦淳史)   ディーリアス管弦楽曲集他
・いろいろなジャンルからのベスト(中村とうよう)   ザ・バンド南十字星」他
・対象があまりにも多すぎた結果(中田喜直)   モーツァルトの“イ長調”の作品他
・“本能的聴覚”で選んだ10枚(高島誠)   シェーンベルクグレの歌」他
・現代を見つめさせられる《日本の昔話》(山本明)   ヤナーチェクの「消えた男の日記」他
・ジャズとロックを中心に(安原顕)   ピンク・フロイド「狂気」他
・ある現代人がある時点で選ぶと(吉田耕一)   スティーブ・ライヒ作品集他
・戦後の日本の前衛的作品から(佐野光司)   黛敏郎「涅槃交響曲」他

5番目の三浦淳史氏は、その当時、イギリス音楽については最も信頼のおける評論家だった。

その三浦氏は、ここで、「「現代人」が、もしほんとうに騒音を嫌うとしたら、わたしは本質的にしずかな音楽をすすめたい」とし、「「現代人」にとってディーリアスはもっとも必要な作曲家のように、わたしには思われてならない」と書いている。

そして、ディーリアスのアルバムを6点、その他、エルガー、デュパルク、ブリトゥン、モーツァルトのレコードを1点ずつ挙げている。

この記事の末尾に、こうある。

「Deliusはこれまで「デリアス」が慣用されてきたが、原音により近い「ディーリアス」を採用してみた」。

私の理解では、日本のクラシック音楽のメディアにおいて、それまでの「デリアス」が「ディーリアス」に変わり、今日に至るのは、おそらくこの記事がきっかけではないかと思う。

イギリス音楽批評の権威とされた三浦氏の影響力からすれば、おそらく当たっていよう。

少なくとも、Deliusを「ディーリアス」と初めて表記したのがこの記事であることは間違いない。

私の手持ちのレコードでは、その前年、1975年11月に購入した、バルビローリの2枚組(Pye盤)では、「デリアス」と表記されている。

私が所属していた大学オケでは、この76年の12月に、「夏の歌」を演奏しているが、たまたまその時、演奏会のプログラム冊子の制作を担当していたので、作曲者表記は「ディーリアス」とした。
(そのようなこともあり、個人的にもこの記事は長く記憶に残ってきた)

古い雑誌を見ていると、演奏者名でも、呼び方の変遷があったことがわかる。
   バーンステイン→バーンスタイン
   リフテル→リヒテル
   アルゲリッヒ→アルゲリッチ(アルヘリッチと言ったこともあった)
   ハルノンコールト→ハルノンクール→アーノンクール

ただ、これらは、何となく変わって行ったような感じがある。

三浦氏のように、これまではこう呼んできたが、これからはこう呼びたい、という一つの提案がなされ、以後、それがメディア全体に浸透した、という点では、興味深く、珍しい例だと思う。