naokichiオムニバス

68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

一発オケの思い出①~くにたち2000年オーケストラ(00年9月)

大学オケで活動してから後、楽器のブランクが長かったが、それでも今の浦安で再び弾き始めてもう12年目。
長く弾いていると、演奏者人口が少ないヴィオラの場合、弾けるか弾けないかは別にして、他のオケで演奏する機会もめぐってくる。

私にとって忘れられない、「一発オケ」の演奏会が3つある。それらの話を。

まずその一つが、「くにたち2000年オーケストラ」である。これは、本当に一生の思い出になるイベントであった。

00年の春、秋田から会社(当時は品川勤務)に電話が入った。大学オケの3年先輩のK氏@Trpであった。卒業以来会っていないし、声を聞くのさえ卒業後初めてだったかもしれない。
K氏の話を聞くと、「近い世代のOBOGで集まってオケをやろうという話が持ち上がっているが、東京にいるお前は幹事ができないか」というのである。
4月に異動(といっても、場所は同じ社屋同じフロアの別部署にであったが)を控えていたので、新しい仕事に変わって落ち着くまでちょっとわからない、とその時は返事をした。

しかし、結局、その後しばらくして話が具体化した際、数人で構成された幹事団に、私も名前を連ねることになった。
幹事長は、2年先輩のN氏@Hrであった。

近い世代の一橋オケのOBOG、津田塾大学弦楽合奏団「アンサンブル・フィオリータ」のOGに声をかけ、9月に、母校の兼松(かねまつ)講堂で演奏会を敢行しよう、という動きが始まった。
もう6年も前のことで、準備作業の細部はおぼえていないが、ともかく、参加者集めから、指揮者の人選、曲選び、楽譜の調達など、やることは山ほどあった。よくまああんなイベントができたものだと今でも思う。

一つには、やはり20~30年ぶりに集まること、しかもオケをやる、ということが、それだけ魅力的だったのだろう。だから、幹事を中心とする参加者全員が、たいていのめんどくささや大変さを乗り越えるだけのパワー、求心力を持てたのだと思う。
二つには、中心となって活躍する人物がいてくれたこと。幹事長のN氏である。いくら魅力的な企画であっても、全体をひっぱるリーダーがいなければ実現は難しかった。今でもN氏の獅子奮迅の働きは語りぐさである。
そして三つには、電子メールの存在である。幹事団は、本番当日まで一度も顔を合わせることはなく、もっぱらメールのやりとりで準備を進めた。メールというものなくして、このイベントは成立しなかったと思う。本番が近づいてからは、幹事団の間では、毎日数十通のメールが怒濤のようにやりとりされたものだった。

ともかく、オケは、充分な人数を集めることができた。エキストラなしである。

指揮者は、当時の常任指揮者、イギリス人のD.H氏を招ければ一番よかったのだが、現在は在阪ということで断念し、当時弦トレーナーをお願いしていた、日本フィルのチェロ奏者であるN氏にお願いすることになった。

事前の練習は1回だけ。8月20日の午後に、都内のスタジオで行った。集まれる者だけ集まっての練習。練習指揮は、K氏@Fgであった。

そして本番。00年9月9日(土)。
朝、兼松講堂に、初めて指揮者N氏と、オケ全員が顔を揃えた。
午前中にリハーサル。全員で合わせるのはこれが初めてだ。
そして、各自自由に昼食の後、午後本番。

幹事の一人、Kさん@Vnが、パソコン手製のきれいなプログラムを作ってくれた。
満員になった訳ではなく、客席のほとんどは、演奏者の家族、知人だった。
しかし、そんなことはどうでもよかった。
やはり、また集まることができて、ともかくも音が出せる、そのことだけで、充分だったのだ。

私の場合、こういう思いがあった。
在学当時、トロンボーンに私と同学年のOとKがいた。この二人は、「黄金のコンビ」と呼ばれていた。
8月の練習の際に、OとKも来た。22、3年ぶりのコンビ復活である。弾いていて、ふりかえると彼らがいる。在学中の部室での練習が昨日のように思い出された。
今、後ろから彼らの音が聞こえてくる。そのことが信じられない思いだった。
私自身、卒業して一旦は楽器から遠ざかった時期がある。
そのことも含めて、まさか、こうしてまた一緒に演奏する日が来るとは。
まさに「生きててよかった」という感激があった。

・・・本番のこの日、誰もが、何かしらの意味で、「今、ここにいて演奏している幸せ」を感じていたのだと思う。

●演奏曲目

  シベリウス   交響詩フィンランディア
  エルガー    弦楽セレナーデ ホ短調
  レスピーギ   「リュートのための古風な舞曲とアリア」第3組曲より「シチリアーナ
  シューベルト  交響曲第8番ロ短調「未完成」
  ワーグナー   楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲

  (アンコール)
  J.シュトラウス ワルツ「美しく青きドナウ
  ブラームス   ハンガリー舞曲第5番ト短調

この日は、まだまだ残暑が厳しかった。
今は、兼松講堂も改修工事が行われて、冷暖房が整ったが、当時はそういう設備がなかった。ステージの私はシャツが汗でぐしょぬれになった。
客席でも多くの人がプログラムで顔をあおいでいた。
少しでも風を入れようと開け放した窓の外から、蝉の鳴き声が聞こえた。
来聴した妻が「タングルウッドの音楽祭みたい」と言った(別に行ったことがある訳ではないのだが)。

演奏はあっという間に終わった。
達成感、満足感。
本当に「生きててよかった」と思った。一生の思い出に残る、というのはこういうことにこそ言うのだと思った。

学内施設の一つである、「佐野書院」に場所を移して、レセプションを行った。広いスペースだったので、その一角で、持ち寄った楽譜でのアンサンブルも引き続き楽しんだ。
そして勿論二次会。

しかし、翌日が日曜日で本当によかった。まさに「祭りのあと」の余韻とさびしさとで、1日抜け殻のようにして過ごしたのだが、翌日いきなり会社だったらつらかっただろう。
75年10月、2年生の時に、東京文化会館で「第九」を演奏した後も、数日は虚脱感で何もする気にならなかったものだが、それに匹敵するイベントだった。

あの日は、「また近い内に集まってこういうことができたらいいね」と口々に言い合って散会した。
もちろん、「こういうこと」がおいそれとできるものではないことはわかっている。特に幹事団にとっては、また一から準備に携わるのは勘弁、という実感もあった。
とはいえ、あまりに素晴らしい体験の共有だった。
これほど大きなものでなくても、何かできないか?
おそらく皆がそんな思いは持って別れたと思う。

それぞれに何かを思いながらも、気がつけは5年半がたち、現在に至っている。

しかし・・・!

幹事長のN氏は、その後北海道に異動されたが、昨年また東京に戻ってこられた。
次の「こういうこと」をめざしての模索の一つとして、そのN氏とメールで語らって、mixiの中に「一橋オケ・フィオリータ70's」というコミュニティを作った。

2000年当時に作った名簿をもとに、N氏と私とで、参加呼びかけのメールを多くの人に配信した。
現在、14人がコミュニティに参加している。
とりあえずは、いくつかのトピック(掲示板)を立てて、昔話などをしている。
この試みがまた次の何かの動きにつながっていけば、と願っている。