初めて聴いたこの演奏は、4楽章版である。
サマーレ、マッツーカらの校訂による、「現存手稿譜に基づく自筆復元の試み」(92年12月)とのことだ。
サマーレ、マッツーカらの校訂による、「現存手稿譜に基づく自筆復元の試み」(92年12月)とのことだ。
・・・何か、やっぱり違和感が。
あの3楽章の後に、別の楽章が続くのを初めて聴いたが、この4楽章、すごく立派な堂々たる音楽なのだ。
終わり近くになって、1楽章の回想が出てくるし、最後の最後は、調こそ違え、7番のフィナーレの最後を思い出させる音型がヴァイオリンに聞こえる。
終わり近くになって、1楽章の回想が出てくるし、最後の最後は、調こそ違え、7番のフィナーレの最後を思い出させる音型がヴァイオリンに聞こえる。
実にそれらしい(って、現存手稿譜に基づくというのだから、別人が作ったパロディではないわけだが)フィナーレである。
しかしそれでも何だか・・・。
人の慣れというのは、恐ろしいものだと思う。
長年、3楽章のあの静かなコーダで終わるものだと思っていた、ブルックナーの9番に、まだ続きがあったというのが、何かヘンなのだ。
でも、やはり、長年今の形で何十回、何百回と聴いてくると、どうしてもそういうものだと思ってしまっている。
つまり、慣れ、だ。
つまり、慣れ、だ。
だから、要するに、「何がその後に続いても、違和感あり」ということになってしまう。
だって、あのミロのヴィーナス。
あれは、もともと両腕があったわけで、我々は、無念にもそれが失われてしまった「欠陥品」を見ているのだが、それしか見ていない身としては、あれに、どんな両腕がくっつこうと、ヘンに思ってしまうはずだと思う。
あれは、もともと両腕があったわけで、我々は、無念にもそれが失われてしまった「欠陥品」を見ているのだが、それしか見ていない身としては、あれに、どんな両腕がくっつこうと、ヘンに思ってしまうはずだと思う。
仮に、実はこれがホンモノの両腕でした、というのが、どっかで発見されて、くっついたにしても、やっぱり「何かヘン」となるのだろう。
なかなか甲乙つけ難い傑作揃いだが、やはり深みにおいて9番かな、と思う。
ちょっとこのところ、9番に傾いている。
ちょっとこのところ、9番に傾いている。