naokichiオムニバス

68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

4楽章版のブルックナー9番

今日の通勤の往復に、アイヒホルン指揮リンツブルックナー管弦楽団ブルックナーの9番を聴いた。

初めて聴いたこの演奏は、4楽章版である。
サマーレ、マッツーカらの校訂による、「現存手稿譜に基づく自筆復元の試み」(92年12月)とのことだ。

・・・何か、やっぱり違和感が。

あの3楽章の後に、別の楽章が続くのを初めて聴いたが、この4楽章、すごく立派な堂々たる音楽なのだ。
終わり近くになって、1楽章の回想が出てくるし、最後の最後は、調こそ違え、7番のフィナーレの最後を思い出させる音型がヴァイオリンに聞こえる。

実にそれらしい(って、現存手稿譜に基づくというのだから、別人が作ったパロディではないわけだが)フィナーレである。

しかしそれでも何だか・・・。

人の慣れというのは、恐ろしいものだと思う。

長年、3楽章のあの静かなコーダで終わるものだと思っていた、ブルックナーの9番に、まだ続きがあったというのが、何かヘンなのだ。

ブルックナーの9番も、シューベルトの「未完成」も、作曲者は、「はい、ここで終わり」としたものではない。
「まだ後を書こうと思っていた」はずだ。
本当は「そこで終わるシンフォニー」ではなかったのだ。

でも、やはり、長年今の形で何十回、何百回と聴いてくると、どうしてもそういうものだと思ってしまっている。
つまり、慣れ、だ。

だから、要するに、「何がその後に続いても、違和感あり」ということになってしまう。

だって、あのミロのヴィーナス。
あれは、もともと両腕があったわけで、我々は、無念にもそれが失われてしまった「欠陥品」を見ているのだが、それしか見ていない身としては、あれに、どんな両腕がくっつこうと、ヘンに思ってしまうはずだと思う。

仮に、実はこれがホンモノの両腕でした、というのが、どっかで発見されて、くっついたにしても、やっぱり「何かヘン」となるのだろう。

今日のところは、ブルックナーの9番、やっぱり3楽章で終わる普通のがいいな、というのが感想だ。
でも、この4楽章、一聴しただけではまだわからないので、しばらくの間、何度か聴いてみよう。

ついでに。
ブルックナーのシンフォニーでは、昔から7番から9番までの3曲をよく聴いてきた。

なかなか甲乙つけ難い傑作揃いだが、やはり深みにおいて9番かな、と思う。
ちょっとこのところ、9番に傾いている。