naokichiオムニバス

68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

「もうひとつの雨やどり」考

7月31日(金)、さだ(まさし)さんの「風見鶏」を聴いた。

1977年、私が大学4年の時にリリースされた、ソロとしての2枚目のアルバムだ。

個人的には、「帰去来」、「夢供養」、「うつろひ」などと並んで、何度も何度も聴いた、大切なアルバムだ。

久しぶりに聴いて、全10曲、いずれ劣らぬ傑作揃いだなあ、と改めて思ったのだが、そんな中、7曲目、つまりB面の2曲目に入っている「もうひとつの雨やどり」に、ちょっと感ずるところがあった。

ソロ・シンガーとしてのさだまさし、最初の大ヒット曲となった「雨やどり」の別バージョンだ。

シングルで発売された「雨やどり」は、コミカルな味わいが受けたが、それとは別の角度から、主人公の女の子の内面について描いたのが、「もうひとつの雨やどり」だと思う。

40年近く前、同じ主題を違うテイストで歌われるこの曲を、私は、さすがさだまさし、コミカルでもシリアスでも聴かせるものだ、と思いながら聴いていた。

時は流れて、今聴いてみて、「この歌詩って、結構問題かも」、と思った。

この歌詩にある主人公の女の子は、とことん控えめだ。謙虚というレベルを通り越して、自虐的とさえ言える。

雨やどりで一緒になった彼に対して、思いはあるのに、「あなたの気を引ける程すてきな娘ではない」と思っている。

「娘は器量が良いというだけで幸せの半分を手にしている」との考え方に、「こっそりうなずいている」。

自分が「白いドレスや口紅や赤い靴が似合うすてきな娘だったら」、と思っている。

そして、「自信なんてかけらもない」と自分を評し、「まさかあなたが選んだのがこんなに小さな私の傘だなんて」と驚いている。

さだファンである私でさえ、今改めてこの歌詩を読んでみると、この女性像、女性観って、どうなのよ、と思わざるを得ない。

少なくとも今の時代に、こういう発想の女性が、女らしくて好ましい、とは言えないのではないかと思う。

この歌が描く女の子像には、どこか男尊女卑的な構図が見えなくもない。

あなたと対等な恋愛なんてとても望むべくもなかった私が、あなたが選んでくれたおかげで幸せになれた、というストーリーには、何と言うのか、「男にかしずく女」みたいなイメージが見えるのだ。

「風見鶏」を数え切れないくらいの回数、聴いてきた。自分にとって格別に大切なアルバムであることに、今でも変わりはない。

それだけに、今回、こんなことを感じたのが、自分でも意外である。

このアルバムの2年後、さださんは、「関白宣言」をリリースして、「女性蔑視の歌」だとして、大変な物議をかもした。

「関白宣言」は、歌詩を読めば、女性蔑視でも何でもないことは、おそらく誰でもわかるはずだ。

当時の騒ぎは不当なものだったと、今でもゆるぎなく思っている。

しかし、「もうひとつの雨やどり」は、それとは違うと感じる。

歌詩の中には、「私はお裁縫もお料理も駄目だし」という言葉まで出てくる。

そういう時代だった、と言ってしまえばそれまでだが、ジェンダー的な役割分担が前面に出ている点、「関白宣言」よりもはるかに女性蔑視的な要素はある。

シングルとしてリリースされた「関白宣言」の目立ち方に比べて、こちらはアルバムの中の1曲に過ぎないことから、おそらく世間的には気づかれることもなかったのだろうが、歌詩そのものを読み比べれば、本来のフェミニストだったら、「もうひとつの雨やどり」の方を、痛烈に批判すべきだったのではないだろうか。

つまり、売れたシングルがたたかれただけ、ということなのだろう。

また個人的な思いになるが、「もうひとつの雨やどり」の女の子を、大学生当時の私は、とても好ましいタイプと思っていた。しかし、今では、こうした女の子に格別魅力は感じない。

そのことを、40年近い時の流れを経て、自分で驚きもするし、興味深くも感じている。

(この件、近々、ゆにきょのマイミクさんと、飲みながらじっくり語り合う約束になっている)